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板室戊辰戦死供養塔
裏
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正面
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正面右部分
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名称 | 板室戊辰戦死供養塔 | 所在地 | 那須塩原市板室3527 |
造立年月日 | 明治27年(1894)4月22日 | 経緯度 | 北緯37度2分54秒,東経139度56分49秒 |
形状(高・幅・厚) | 172cm・56cm | 文献 |
「黒磯市の道標」「黒磯市の文化財」 |
銘文 |
[前面] 右ろくとぢ 板室戊辰戦死供養塔 明治廿七年四月廿二日拾七名二十七回忌
[裏] 寄進者一覧がびっしりと刻まれている |
備考 |
慶応4年(1868)の戊辰戦争跡地に建てられた供養塔。阿久戸坂上板室道と六斗地道の分岐点。 幕府軍と会津藩砲兵隊、回天隊は、白河出撃の命令を受け三斗小屋宿に滞在していたが、慶応4年4月、急遽大田原城攻略に命令が変更される。幕軍は板室まで兵を進め、4月21日塩野崎村で官軍と戦闘を行い、日暮れて板室まで退き宿営した。明けて22日早朝、官軍は穴沢村まで侵攻、家屋を焼き払い、その夜10時ごろ油井村で攻め入る。両軍は阿久戸坂をはさんで激しい攻防を展開した。ついには幕藩兵約300人は撃退され、三斗小屋方面へ敗走した。 供養塔より北へ約50mの荒地は、幕軍歩兵指図頭取、小笠原新太郎が戦死した「小笠原畑」といわれている。現在は別荘地となっているが、以前黒磯市が建てた標柱がある。 供養塔より東に約300mの松林の中に「歩兵塚」といわれる戦死者合同埋葬の塚跡があったというが未確認。 |
所在地地図 |