那須町大沢は明治元年までは「ひやり」「火遣」といったが、大火があり、村の大半が焼けてしまったのでその時から「大沢」と改めたという。高久にも「ひやりみち」の道標がある由。 高久あたりの古老は現在でも「ひやり男に部屋女」の言葉をいい、ひやり男は、平家の落武者らしい立派な男降りで、女は部屋(池田)の女がきれいで情け深いことをあらわすとか。
(上記文献より)
火槍村は天稲荷神社があり、尋ねごとがよく当たり、盛況だったという。
さて、この道標の「ひやり」は果たして上記の地名を指すものかどうか?
下石上の国道沿いの集落から西の箒川沿いは河岸段丘で低くなっている。川沿いはススキや葦が茂り、焼き畑で畑作を行ったか、害虫駆除に年一回火を放ったのではないか。「ひやり」は地名ではなく、「火遣り」の可能性が高い。
ひやり道は大田原宿から下石上宿を通る道筋の別称のようだ。那須中央病院脇に出る道が今も残っているが、そこから先は工業団地の建設により分断されてしまっている。地元ではカノッカイドウ(狩野街道)と呼ばれている。
会津中街道は、箒川を渡河し当初は山田街道からたてみちにを通っていたが、その後現在のR4の元となった高台の道筋を通るようになった。 |