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宗祇戻し前の道標

正面


名称 宗祇戻し前の道標 所在地

白河市白河市旭町1丁目 大谷菓子店前

造立年月日 文政5年(1822)

経緯度

北緯37度7分18秒、東経140度13分30秒

形状(高・幅・厚) 塔柱146・30・30 台石70・40・87cm 文献
銘文

[正面]
          右 たなくら
○(梵字薬師三尊?)    道
         左 いしかハ

[左]
(漢文で宗祗戻の由来が彫られている)

文政五年壬午夏六月 広瀬典識並書

備考

関山街道と石川街道の分岐にあるいわゆる「白河城羅郭岐路碑」の道標。この地は白河城下の東端にあたり、 居住区域を囲むような城壁があったという。宗祗返しの碑がある場所。正面上部に薬師三尊らしき梵字が浮き彫りになっている。左面には白河藩の儒学者、広瀬典が撰文した宗祗戻しの由来が漢文で刻まれているらしいが、風化のため読み取れない。台石の上部は雨だれで?削られた穴が多数空いている。台石背面には13人の寄付者名が彫られている。

宗祗戻しの由来
文明13年(1481)、白河城主結城政朝が鹿嶋神社の神前で一日一万句の連歌興行を催した際、これを伝え聞いた都で名高い連歌の宗匠、宗祗法師ががはるばる奥州にくだり、三十三間堂の前を通り、一女性に行きあい鹿嶋連句の終了を告げられた。その時宗祗は女の背負っていた綿を見て「売るか」と問うたところ、女はすぐに 「阿武隈の川瀬に住める鮎にこそ うるかといへる わたはありけれ」 と和歌で答えた。これを聞いて宗祗は東奥の風流に感じ、ここから都へ引き返した、という逸話。「うるか」とは川魚の内臓(わた)で作る塩辛のこと。


薬師三尊か?
台石裏面の寄進者名


現在の道標の所在地図