銘文 |
[台石 正面]
町 上
[台石 右]
川 白
[台石 左]
戸 江
[燈籠鋳名(再建燈籠に書かれている
当時の鋳名)]
町 内
安 全
町年寄 岡本角左衛門
町名主 津久井新助
釜屋新三郎
三川屋茂兵衛
藤屋十右衛門
大和屋吉左衛門
肴問屋孫右衛門
大和屋定兵衛
日野屋文蔵
永井屋藤八
清水屋武兵衛
佐野屋徳太郎
浜屋弥十
若野屋吉蔵
叶屋礒右衛門
巴屋利右衛門
太田屋藤兵衛
紙屋重兵衛
近江屋五郎右衛門
塩屋甚右衛門
片岡屋権助
福島屋太郎衛門
佐野屋久七
入幡屋善七
小林屋茂兵衛
藤屋吉助
菊屋宗兵衛
丸屋源七
万屋吉右衛門
中田屋久助
近江屋藤四郎
相馬太七
世話人 田代屋孫兵衛
釜屋小兵衛
大和屋吉兵衛
伊勢屋平左衛門
米屋喜助
和泉屋治兵衛
文政二乙卯年十月吉日
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備考 |
奥州道中大田原宿上町にあった金燈籠。現在の金燈籠は昭和54年(1979)に再建されたものであるが、道標部分の台石は当時のものである。
この金燈籠は文政2年(1819)10月、町内安全の祈りを込めて建立された。燈籠部分は鹿沼の技工が鋳造したもので、本体の基部には建立世話人、有志計38人が鋳名されていた。台石が道標になっており、町名の「上町」と「江戸」「白川」の文字が刻まれている。太平洋戦争末期の金属供出でオリジナルは消失してしまった。
昭和30年(1955)7月、町内有志が旧三斗小屋宿からデザインの似ていた 遅沢村百人講中により白湯山へ献納された金灯籠 を譲り受け「百人講ノ盡力ニヨリ」(現地案内板より 遅沢地区住民に了承を得て、の意味か?要調査)復元した。当時かなり破損がすすんでおり、一対の灯籠の使える部品を一基にまとめ修復し大田原に持ってきたのだそうだ。ちなみに旧三斗小屋宿の全戸離村は昭和32年(1957)のこと。
戦後交差点はロータリーになっており、その中央に金燈籠が鎮座していた。しかし時代の推移により車の交通量が激増、何度か金燈籠に衝突する事故があり、交差点の片隅に放置される状態となった。昭和53年8月黒磯市に返還され、現在は北那須ライオンズクラブの尽力により旧三斗小屋宿に再建立されている。
昭和50年代、金燈籠建設委員会が結成され金燈籠の再建計画が持ち上がり、上町内有志を中心とした人々により昭和54年(1979)オリジナルに近いデザインで再建された。
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