「万人風呂 霞上館」に行ってみる

辻潤が泊まったという「万人風呂 霞上館」はどこにあったのか。



「万人風呂 霞上館」が存在した場所に行ってみた。

八汐橋を渡って須巻温泉方面へ。途中、トテ馬車の修理ドックらしき場所があった。塩原自然研究路の駐車場に車を止めて散策を開始する。地図上でみるとこれが袖沢でいいようだ。ぱっと見で遺構が見つからないので(石仏もそうだが、探索は草木が枯れる時期が良い)聞き込みをしてみる。沢に近いお宅を訪問してみると、なんと万人風呂 の創設者の孫にあたる方だった。



ちょうどカーブに差し掛かる部分の山際が「万人風呂 温泉旅館 霞上館」だった場所で、砂防堰堤かと思われた壁の上が写真に写っていた大きな池なのだった。許可を得て建物のあった敷地内に入らせてもらう。



ゆるやかな斜面をあがっていくと石祠と石塔があった。石祠には「文政元寅天(1818)八月」と刻まれていた。もともとこの源泉は古くから知られていたのだ。O氏曰く、銀行員だったおじいさんが、たまたまこの地にキノコ狩りに来て自噴する温泉を発見、一念発起してこの地にリゾート開発を行ったのだという。大正の中頃のことだ。この山中の桃源郷へのアクセスを便利にするために箒川に専用の橋「遊園(ゆうえん)橋」を作り、塩原の街中から万人風呂までの道路「遊園道」を開削した。送迎用に馬車を往復させ利便性を良くした。



だいぶ枯れ葉などが沈殿しているが、確かに池の跡があった。かつてはこの大池で舟遊びをしたり釣りもできたという。コイを放し飼いにしていたというから、食卓にコイのアライが上ったのもうなづける。
万人風呂は多いに当たり、どっと宿泊客が訪れ、対応できるように宿泊棟も増やしていった。塩原に万人風呂あり、と瞬く間に名所となった。O氏のおじいさんは、旅館業だけではなく、この沢の近くに「温泉付き分譲地」も計画していたという。



宿泊施設が建っていた場所。段々になっていて石垣がきれいに残っている。

やがて世界恐慌がやってくる。世間は次第に不景気になり塩原に来訪する観光客も減少していった。そして国を挙げての戦争の時代へ。塩原温泉の旅館も疎開児童の受入れを余儀なくされた。「万人風呂 霞上館」も多くの児童を受け入れたという。戦後はいつまで営業していたかは知ることができなかった。山津波があって何棟か潰された話も伺った。30年くらい前までは廃墟が残っていたそうだ。今はすっかり緑に覆いつくされて薄暗い森となっている。

かつては五十数度の温泉が懇々と湧いていたが、近い水脈から汲み上げが始まり一気に水量が減ったという。しかし今でも源泉は残っているらしく、箒川沿いのとあるホテルに供給しているという情報もあった。


いろんな話を聞かせてくれたO氏にお礼を云い、万人風呂への公式ルートである「遊園道」と「遊園橋」を見に行ことに。




青葉通り沿いの小太郎ヶ淵入り口前から箒川の渓谷に下りていくつづら折の道がある。専売公社(JT)の塩原寮が途中にあるこの道が「遊園道」だ。



これは90年代の住宅地図に着色したもの。オレンジが青葉通り予定線、黄色が万人風呂に向かう道路として開削された「遊園道」だ。「遊園」という名称が、万人風呂がいかに当時の塩原にとって一大レジャーランドであったかを物語っている。青葉通りと重なる辺りで分岐する細道が「小太郎ヶ淵」への道。


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青葉通りからつづら折れで上がっていく道も現存している。それでは箒川の流れる渓谷下に下りていってみよう。



JT塩原寮を過ぎ坂道を降りていくと、つづら折れの部分に「塩原温泉川崎大師厄除不動尊」の看板が立っている。川崎大師は万人風呂に向かう道沿いの不動尊だ。こんな位置にあるのは不自然だし、万人風呂の利用客を見越した建立であった可能性もある。



現在の遊園橋はS32年に掛けられたコンクリート橋だ。辻潤もまたこの橋を渡って「万人風呂 霞上館」へ向かったのだろう。

この橋の存在を知る前は下流一本隣の「塩湧橋」ルートを疑っていた。戦前の木橋の絵葉書が存在しているからだ。





これが現在の塩湧橋だ。遊園橋も出来た当初はこの絵葉書のような木橋だったのだろう。現在の橋の手前に旧橋の橋脚跡が残っている。


上記は明治後期の地形図。しかしそのルートを見直すと、この橋は塩の湯へアクセスするのが目的の橋であり、逆に矢板の平野から八方越えで塩の湯、塩原温泉の箒川北岸に渡るために古くからあった渡渉点なのではないか。もっと下流の「福渡橋」は戦前からある橋のはずだが、この頃にはまだ架かっていないようだ。




近くに「塩湧橋」があるのに別に「遊園橋」を架けた理由は何なのだろう?戦前は川を渡るのに渡り賃を払わねばならなかった。当然利権は発生する。「塩湧橋」は塩の湯に行くための橋だったのに、商売仇の万人風呂に行くのに使われては面白くない、なんて思う輩もいたかもしれない。利便性を確保するために専用の橋と道路を開削せざるを得なかった、なんてことはあるだろうか。地図を見直してみるとわかるが、「塩湧橋」と「遊園橋」は甘湯沢を挟んで架けられており、もともと塩の湯にアクセスするためのルートである「塩湧橋」は、鹿股川に引き寄せられて甘湯沢からは離れてしまう。袖沢に向かうにはかなり遠くなってしまうので、やはり甘湯沢の西側から箒川を渡るルートがほしいと考えるのも無理はないのだ。



現在、塩釜温泉を通過する際、ほとんど見落とされてしまうこの小さな橋に、そんな歴史があろうとは思いもしないだろう。

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