がりつうトップ > 那須野の道 > 会津中街道 > 三斗小屋宿跡(作成中)
三斗小屋宿跡
![]() |
![]() |
板室方面から大峠方面 | 大峠方面から板室方面 |
名称 | 三斗小屋宿跡 | 所在地 | 那須塩原市板室 三斗小屋 |
文献 | 那須山麓の民俗 三斗小屋 三斗小屋温泉誌 黒磯市の文化財43 |
経緯度 | 北緯37度8分3秒,東経139度55分33秒 |
説明 |
三斗小屋宿の成立は、元禄8年(1695)会津中街道が引かれる際に、会津藩が国境の大峠の両側に野際新田宿と三斗小屋宿を置いたことに始まる。それまでは人家はなかったという。三斗小屋宿は三斗小屋本坪ともいい、街道開通に伴い3キロ東の三斗小屋温泉の入湯客が増加し、「下の宿」と呼ばれる三斗小屋宿が形成された。 |
白湯山信仰について
□
前のポイントへ 会津中街道 次のポイントへ
□
那須野の道
□
那須野の道標
□
がりつうトップ
名称 | 三斗小屋宿の戊辰供養塔 | 所在地 | 那須塩原市三斗小屋飛地 三斗小屋宿墓地 |
造立年月日 | 明治13年(1880) | 経緯度 |
|
形状(高・幅・厚) | 文献 | 那須の戊辰戦争ほか | |
銘文 |
[正面] |
備考 |
宿に入る手前の墓地の片隅に建つ。会津軍の駐屯地として、板室の戦いや大田原城攻略はこの地より進撃した。苦土川を挟んだ三斗小屋での戦いでは旧幕府軍側では13人、新政府軍館林藩兵が3人戦死している(諸説あり)。また宿の住民が虐殺されたという話が残っており、他地区の供養塔の建立時期より早い終結から13年後に建立されている。 |