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三斗小屋宿跡

板室方面から大峠方面 大峠方面から板室方面

名称 三斗小屋宿跡 所在地 那須塩原市板室 三斗小屋
文献 那須山麓の民俗 三斗小屋
三斗小屋温泉誌
黒磯市の文化財43
経緯度 北緯37度8分3秒,東経139度55分33秒
説明

三斗小屋宿の成立は、元禄8年(1695)会津中街道が引かれる際に、会津藩が国境の大峠の両側に野際新田宿と三斗小屋宿を置いたことに始まる。それまでは人家はなかったという。三斗小屋宿は三斗小屋本坪ともいい、街道開通に伴い3キロ東の三斗小屋温泉の入湯客が増加し、「下の宿」と呼ばれる三斗小屋宿が形成された。
元禄9年(1696)4月、会津藩主保科正容が開通した街道を使って江戸へ向かう。このとき正容公一行は三斗小屋で休息をとり、百村で宿泊した。 この街道による参勤交代は三回で廃止となったが、会津と関東を結ぶ近道のため、遠くは越後の人々まで往来し、三斗小屋温泉への湯治、田島の天王さまや野際の観音さま、木の俣地蔵尊への往来、そして1850年頃より修験道の白湯山信仰が盛んとなり、門前町として大いに栄えた。今なお寄進された常夜灯や石仏などが残る。

大峠からこちら側三斗小屋宿は、黒羽藩領であるが、宿の成立からその後の繁栄においても会津藩そして会津側の人々とのつながりが大きかった。慶応4年(1868)の戊辰戦争の際にも、宿の人々の心情は会津寄りであったに違いない。会津藩兵の道案内も買って出ている。黒羽藩はその裏切り行為に憤り、三斗小屋宿から撤収する際、民家からの分捕(略奪)行為、焼討ち、そして住民への虐殺行為を行った。田代音吉の「三斗小屋誌」には幕軍近藤民之助らの仕業と書いている箇所と、黒羽藩の仕業と書いてある箇所があり、わけがわからない。「那須の戊辰戦争」は黒羽藩を引用し、「黒磯市史」は幕軍犯行のほうを引用している。
戊辰戦争で、旧幕府軍の攻防の要衝として千名あまりの兵が駐屯、戦火で全焼し、 復興後も明治17年の国道開通、19年の東北線開通により、会津道の存在意義は失われ、徐々に減少していく。明治中期に鉱山が開かれわずかに賑わいをみせるが、明治41年(1908)節句の不審火により再度全焼(当時14戸)、その後も4戸が住んでいたが昭和32年全戸離村により廃村となった。建造物は朽ち果て倒壊し今は更地となっているが、旧道沿いに当時の賑わいが偲ばれる塔碑がみられる。そのほとんどが風雨災害、心ない者により破壊されていたが、北那須ライオンズクラブにより修復された。
大峠と麦飯坂の一里塚の間に、もう一つ一里塚があるはずで、位置的に三斗小屋宿付近となるが、今のところ発見されていない。
宿には白湯山信仰の盛んな様子を物語る石仏や灯籠が数多く奉納され、街路の水路に沿って並んでいる。

白湯山信仰について

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名称 三斗小屋宿の戊辰供養塔 所在地 那須塩原市三斗小屋飛地 三斗小屋宿墓地
造立年月日 明治13年(1880) 経緯度

 

形状(高・幅・厚)   文献  那須の戊辰戦争ほか
銘文

[正面]
     明治十三庚辰五月

   戦死若干墓
辰        大金平介
    世話人
         高根澤藤左衛門

備考

宿に入る手前の墓地の片隅に建つ。会津軍の駐屯地として、板室の戦いや大田原城攻略はこの地より進撃した。苦土川を挟んだ三斗小屋での戦いでは旧幕府軍側では13人、新政府軍館林藩兵が3人戦死している(諸説あり)。また宿の住民が虐殺されたという話が残っており、他地区の供養塔の建立時期より早い終結から13年後に建立されている。